ごろ寝発電

”experience is everything" 辻和美というサンプル。

それって問題だったのでしょうか?

先日訪れたロンボク島には不登校という概念がない。

 

もちろん学校もあるし義務教育もあるのだが学校に行かないことが「問題になっていない」のだ。「だってこの子が行きたくないって言うんだもん」以上。

 

親も社会も学校に行かないことをことさら強く「問題視」していない。そうすると不登校は問題ではなくなる。

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あの島のあのゆるい空気感。学校に行こうが行くまいがそんなことはどっちでもいい。お前は存在しているだけでいいんだよ。何かをしていても何もしていなくてもOKだよ、だってそうしたいんでしょう?と優しくそして強く存在の全てを肯定する。存在の全肯定がデフォルト。

 

『無価値観』に苦しむ日本人は多い。『べき』『ねば』から外れると『問題』になる。だけどそれって本当に問題なのでしょうか?

 

なにかをしているから価値がある?なにもしていないから価値がない?

 

学生時代に社会的死と生物的死の違いの話を授業で聞いてなるほどと思った。例えばスティーブ・ジョブズの死と私の死は同じか?といったら違う。社会的影響度でいったら全然違う。だけど「死」そのものではどうか?「死ぬ」という一点においてジョブズの死も私の死も同じである。生きていない、というだけだ。

 

社会的な「死」と生物学的な「死」は別のものだ。同じく社会的価値と人が生きる価値は別のものである。どっちが上とか下とかじゃなくて違うもの。それだけ。ここを混同するからややこしくなる。

 

日本の教育水準の高さ、識字率の高さ、それはそのままジャパンクオリティであり、海外に行けば行くほど「日本人」であることのありがたさを噛みしめる。「人として」素晴らしい行為をしてくれていた先人のおかげで「日本人です」と言うとにっこりしてもらえる。「教養」は大事。めっちゃ大事。だけど「教養」ってある意味「生きざま」なんじゃないかとも思う。

 

問題は問題視した瞬間から問題になる。問題を作ってる、ともいえる。みんなで「そうなんだー」ってただ笑ってれば問題にならないことっていっぱいあるんじゃないかな?無論進歩とか改善という意味においてはその発想は弊害もあるけれど。だけど単純にロンボク的空気感、大好きです。

 

それでいいんだよ~と優しく包んでくれる場所がちゃんとこの世に存在するってことが、なんか、いいな。そしてそんな感じで生きてる人たちもいる、って事実がなんだかとっても嬉しい。だから日本はだめだ、だからロンボクは発展しないんだ、っていうんじゃなくって、どっちもあるんだなあ。どっちもすごいなあ。どっちも自分に合う部分と合わない部分があるんだなあということを余計なジャッジなくただただ味わいたいなと思う。

 

今回はちょいと短めで。それではまた、お便りします、母上様。一休。

 

 PS.あまりに価値観違い過ぎて面白かったので人と話す系のロンボクツアーするかもです。興味ある?

 

***わたしにとってだけの正解。見えている世界***

辻 和美 ツジカズミ 

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